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 八幡平を堪能して東北道を南下し、平泉前沢インターを降りる。国道4号線をものの数分走ると目的の「中尊寺」の前に出る。平泉には過去二度訪れているが、毛越寺ばかりでなぜか中尊寺には行ってない。今回の旅の目的のひとつだが、楽しみはとっておいて先に昼飯としよう。
 周辺には“お食事”や“蕎麦処”のノボリが数多くあるが、無視して2キロほど先の平泉駅まで行き、駅前で蕎麦をすする。



 蕎麦を食い終わると、その平泉駅前からほんの2〜3分で「高館 義経堂」(たかだて ぎけいどう)に着く。
 拝観料200円を払って40段ほどの階段を登ると、目の前の視界は開け、北上川がゆったりと流れる広大な田園風景が広がる。
 そしてここには義経堂だけでなく、松尾芭蕉の、あの有名な句の碑が立っている。


“夏草ばかりが生い茂るところだが、かつては義経主従や藤原一族が栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。” といった訳。中学校の教科書に出てきましたなあ。。。


北上川を正面に見て、左に義経、右には芭蕉の句の碑が立っている。



 芭蕉は1689年に、この高館であの句を詠んでいる。偶然か故意かは分からないが、義経が没したジャスト500年後のことであった。その1189年、この場所で義経は、頼朝の圧迫に耐えかねた藤原泰衡(ふじわらのやすひら:秀衡の子で、泉屋の名のゆらいの泉三郎忠衡とは兄弟)の急襲にあって、自刃したとされる。
 地元の方が「義経さまはその後、青森やら北海道、モンゴルまで逃げたなんて説もありますが、私ら平泉の者はこの地で亡くなられたと信じております。」と言っていた。
 まあ、義経にまつわる伝説は数多くある。“弁慶”もしかり、時代の流れとともに話に尾ひれがついて、現代ではこれほど有名になったと思われる。

 なお、義経堂は義経の死後500年近く経ってから、仙台藩 4代目藩主 伊達綱村(だて つなむら)によって建立された。
 そうなんですよぉ、お客さん、覚えてますか? この旅の初日、「あ・ら・伊達な道の駅」の独眼竜 伊達政宗のひ孫にあたるのだ。

 なんだか、時代はぐるぐると回り、ロマン豊かで面白いじゃないですか・・・。
(中学・高校の授業ではまったく興味がなく、寝てましたけどねえ)
義経堂におられる義経のりりしい像



お参りしてから、泉屋のオヤジに言われたとおりに毛越寺へと向かう。




 毛越寺(もうつうじ)は850年に創建されたと伝えられている。その後、藤原一族によって拡張され、その広々とした美しい庭園は、今なお平安時代の面影を色濃く残している。
 過去にも二度、毛越寺には来ている。一度目は、バイク小僧全盛の高校時代の、なぜか鉄道の旅で、境内にあるユースホステルに泊まっている。二度目は10年ほど前の家族鉄道旅行。そうなんですよぉ、お客さん!(このフレーズ、3回目か)、私はバイクと同等に鉄道ファンでもあるのです。だから今回が初めてバイクの訪問なのだ。(来るつもりはなかったが、あのオヤジに言われてしかたなく)
 アヤメとハスの花でも有名な毛越寺であるが、訪れた7月中旬は、アヤメの花見には10日ほど遅く、ハスの花の開花には10日ほど早かった。なんという中途半端なりにけり。



 さぁ〜て本命の中尊寺へと思いきや、時計を見やれば3時過ぎ。
 この旅最後の宿はここから2時間近くかかるので、平泉散策は時間切れ。これで本命“中尊寺”はあきらめとあいなる。




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