2010年11月25日






 談山神社に立ち並ぶ土産物屋の前をそのまま真っ直ぐに降りていく一方通行がある。これが正式な参道であるが、県道と合流する手前に東大門というひじょうにシブい佇まいの門がある。門の山側には苔むした石垣が築かれており、どう見ても神社仏閣の入り口とは思えない重厚さである。県道からはやや奥まった位置にあり、樹木に囲まれて薄暗い場所でもあるせいか、門前にあるスペースに車を停める人は少ない。真っ赤に染まる紅葉の山に美しく塗られた社殿が点在し、そこをうじゃうじゃと観光客が行き交い、エア蹴鞠などをするトンチキもいるような賑やかな山から下りてきたこともあり、その清々しさはひときわ心に響く。
 これほどシブくて静かな場所だと写真でも撮りましょうやとなるのは勝ち虫隊のサガである。おっさん三人がそれぞれカメラを取り出して、好き勝手に写真を撮りだして、時には本職様の指示に従ってみたりしつつ、なんとも良い気分で時間は過ぎていったのである。












談山神社からすぐに渋滞。バイクだけなら先に進むが、ま後ろのクローゼットカーを置いてくわけにもゆかんし。
 この東大門は、両袖付き本瓦葺きの高麗門で1803年の建立とある。この地に鎌足公の神像が安置されたのが701年で、それから1100年後にこれだけの門が建ったのである。そして現在はさらに210年が経過。この長い時間には今以上に栄えた様子も残されており、栄枯盛衰、紆余曲折がある。そこに、新たなこじつけも生み出すのが勝ち虫の心意気である。鳥肌が立つようなこじつけは、後々ご披露しよう。

 さて、門の近くには談山神社のある多武峰(とうのみね)が女人禁制であったことを示す“女人堂”という石碑もある。この門より少し下ると一の橋があり、県道37号線を北上した先に一の鳥居がある。このルートが正式な参道なのである。
 前回はこの正式なルートを走り、泣きながら同じルートを帰ったのであるが、交通量も少なく、細い道という記憶ぐらいしかなかった。ところが、快適に写真を撮って、未だに太陽も真上付近にあり、せっかくだから正式な参道を下りましょうという素敵な意気込みはあっさりと暗雲立ちこめることになったのである。ほんのわずか進んだ先で、車がずらっと停まっているのだ。
 いやいや、上りは混雑しても下りはまだだろう……!? 工事渋滞じゃないすか……!? デモかも知れない……!? 様々な予想が頭のなかを駆けめぐるが、勝ち虫のエンジンは停止のままである。もう、ぜんぜん動かない。待つこと約20分。飛鳥寺の4分信号が微笑ましく感じる時間であるが、動き出してみれば、なんのことはない、道が狭いだけであった。そこをバスが走るし、トラックも走るという状況では仕方がない。飛鳥寺では信号が変わるのは明日かと思ったが、ここは談山神社の参道を下るだけに、“たんざん(単純)にはいかない”……渋滞なので、お後も宜しくないようで。






 参道というか県道37号線のすれ違い渋滞もおさまると、ゆっくりと道は下って国道165号線にあたる。これを左折してちょっと進んで右折してさらに進めば次なる目的地となる大神(おおみわ)神社である。なんと談山神社の東大門を出発してから、わずかに3回ほど曲がるだけという簡単コースであることも、このルートを選んだ理由だが、ある交差点の信号待ちで三橋さんが「ちょっと替わろう」とおっしゃる。どうやら、バイクの交換を申し出ていらっしゃるようだ。CB750とZEPHER750のどちらが好きかと問われれば、後者の方が音や雰囲気でちょっとだけやんちゃなので、こいつは嬉しゅうございますとばかりに交替する。まぁ、ここから先は市街地になるので、走りや雰囲気がどうのこうのという状況ではないのは百も承知ではあったが……。ところが、乗り始めてみるとなんだかとても嫌な感じ。な、なんすかぁコレは?
 交替の際に「ちょっと変なんだよ」とおっしゃっていたのが思い出される。ハンドルが重いのだ。前輪だけが泥沼を走っているような妙にガチガチな感じで、ハンドルが自然にロールしない。目視しても空気圧は正常っぽいし、ブレーキにも異常はない。どうやらベアリング辺りに問題発生なのだろうか。そういえば、談山神社で写真を撮るときに、なんどかUターンをしても、三橋さんはぎこちない印象だった。「ふふっ、Uターンはこうするんだぜっ」ととんぼ返りよろしく、軽くこなしながら独り悦に入っていた石野だが、こいつは申し訳ございませんでした……。
 簡単コースの目的地である大神神社は桜井市三輪(みわ)という場所にあり、大和国一宮三輪明神であり、御神体は三輪山である。なるほど、合点しましたぜ。過ち勝ち虫隊は2台で4輪だが、その1輪が不調で正常なのは3輪。三輪に向かうというのは、こういうことなのか。恐るべし大神神社である。

フロント不調のゼファー750とCB750。

 この大神神社は、日本最古の神社のひとつである。参拝者がお参りをする拝殿の奥にある神殿にお祀りされる御神体があるのが一般的だが、ここは神殿がなく、御神体はその背後にある三輪山そのものである。古代から、神の鎮座する山や森を神奈備・神名備(かんなび)と呼んで信仰の対象としているが、その形が現在も残っているのである。
 大神神社は、前回の奈良紀行ではちょっと遠目から眺めただけであった。談山神社で塔も見られず、行き止まりにも遭って涙目になりながら天理を目指して走っていた春の夕暮れに、なんとも威厳のある大きな鳥居とその向こうに聳える三輪山が見えたのである。「なんて格好良いんだ」と思いながらも、心は天理ラーメンに惹かれていた前回の旅。こっそりと思い募らせていた場所であるので、今回は「日本一の革ジャンをつくるのだから、日本一の神社に行かないで、どこに行くんすか」と訳の分からないことを語って皆様をそそのかしつつ、寄らせていただいのである。

必死に撮っている坂上カメラマン。鳥居の大きさが分かるでしょっ。











手前の三輪そうめんには目もくれず、でっち羊羹を買う石野。
 国道169合号を進むと相当なトンマじゃない限り見落とすことはない大きな鳥居が見える。これが1の鳥居。そこから進むとなぜか参道を線路が横切るというぶしつけな様相を呈してから2の鳥居の登場である。ここからは、歩いて拝殿まで向かう。なんと厳かな雰囲気だろうか。ここ数年は、パワースポットなる言葉が流行しているが、そんなまやかしにだまされて、信心もなく浮かれてはいけない。心静かにお参りすれば、それで良いのではないだろうか……なんてことを考えつつ拝殿にてお参り。その横には、お百度参りをするための数をお数えるそろばんみたいな算木もある。なんてシブいんだ。写真撮りまくりである。浮かれているのは、どこのどいつだ……。
 この拝殿から先は、身を清めて許可を貰わないと進むことができない。汚れきった私は、あえてご辞退申し上げつつ、帰りの参道脇で私に相応しいネーミングではないかと思いつつ“でっち羊羹”なるものを購入したのである。この地は三輪そうめんが有名だが、あえてそうめんを買わずにでっち羊羹に手を出すあたりが、相当にシブいのである。
 大神神社は大物主神を(オオモノヌシノカミ)を主神にしており、酒造の神でもある。ここ三輪山はそのものが御神体であるが、その杉を形取って酒蔵などの前に掲げられているものが酒林である。ならば、きっと美味しい酒が近所では買えるのではないかと淡い期待を抱きつつ伺った次第ではあるが、行ってみると溢れんばかりの“三輪そうめん”という文字に圧倒されて、すっかり忘れてしまった。それで、なぜかでっち羊羹なのだった。







 大化の改新・建武新政・明治維新が日本の三大改革であるという説がある。様々な意見はあるだろうが、談山神社は大化の改新と重要な関わりを持つことは確かである。そして、日本一古いとされる大神神社へと旅は続き、ここからは大和郡山へと向かう。それは壮大な歴史ロマンを探す旅である。
 なんて書くと、地理に詳しくない方はちょっといい感じに聞こえるが、地元の方からすれば「ご近所やでぇ」という距離である。東京でいえば品川から浅草に行って、さいたま市に行くくらいの距離である。だからといって、ケッとは言わないでいただきたい。真面目に写真を撮ったり、美味しいものを食べたり、私利私欲なお願いをしたりしていると時間はかかるのである。しかも、勝ち虫隊だけではなく、カブト虫号も一緒であり、その上釣瓶落としな毎日なのであるから、優しく見守っていただきたい。
 というのも、談山神社や大神神社はちょっとだけ市街地からは外れていたが、ここから先は田園と市街地とが交互にあらわれる盆地のなかである。最近はひじょうに優秀なナビゲーションシステムも登場しているが、そんな最新機器は持ちあわせていない勝ち虫隊にとっては前進あるのみである。紙の地図だけが神の地図であり、勘と勢いで進んでいく。つまり、三輪山は神奈備であったが、勝ち虫隊は勘ナビであるということだ。
 そして案の定、大和郡山で予想外に細い市街地を右往左往してしまうのだった。よーく考えてみれば、大規模な開発がなされたわけでもない古い城下町の面影を残す土地であり、細道がくねくねと続くのは分かり切ったことであるが、ツーリング歴が何年経っても、自分に都合の良いように考えてしまうのである。
 大抵の場合は、地方都市とはそこそこ大きな駅があって、城跡がある場合は、城跡と駅を中心に街が構成される。であるからして、大和郡山では駅をかすめると、市内のあちこちに「城跡はこっち」という看板が出ていて、あっさりたどり着けるハズとなる。しかし、勘ナビは見事に玉砕。スミマセン、関東の田舎者でした。もう、すぐそこに城壁は見えているのに、近くにたどり着けない。まあ、実際のカーナビでも「目的地付近に着きました」と放り投げられるから同じ状況かもしれないがな。




 なんとかたどり着いた大和郡山城。天守閣こそ残されていないものの追手門、隅櫓、多聞櫓などが復元されており、立派な堀と城壁は往時を偲ばせる。まぁ、もともとは三橋さんの城好き指向が反映されての訪問であるが、いろいろ探ってみるとなにかのお導きではないかと思えるほどのこじつけが展開できるのである。
 郡山城は古くは土着の豪族などとの歴史があるがそれは省略する。現在の形の基礎となったのは安土桃山時代から江戸時代にかけてである。築城に際しては、時勢の影響もあり大急ぎであったことと、周辺に十分な石を産出できなかったことも重なり、平城京などの今となっては重要文化財的な礎石から路傍のお地蔵様、その辺に転がる石までを集めたという。さらに、この勢いは3代目城主とされる豊臣秀長の代になってますます盛んになる。実際に、これらは流用石と呼ばれていたり、石垣に組まれた“逆さ地蔵”なども見つけられる。
 まぁ簡単にたとえれば、かつては暴走族御用達とされていたKHとかFXとかのバイクという感じか。ちょっと違うような気もするが、ようするに、なんて昔はもったいないことをしていたんだと周囲を嘆かせてしまっているということだ。





 さて、ここで華麗なるこじつけのために注目したのは、このもったいない話ではない。江戸時代後期になって城主となる柳沢甲斐守吉里(やなぎさわ かいのかみ よしさと)である。現在の大和郡山市は名産品のひとつとして金魚の養殖。これは、柳沢吉里が甲府から移ってきた際に職人を連れてきたともいわれている。この御仁はひじょうに文化的指向が強く、心学や国学から茶道や華道まで幅広い文化が根付いたという。現在、印傳(いんでん)とえば甲州印傳が有名だが、鹿革といえば奈良である。いろいろと調べた限り、これらには歴史的な交流はないが、印傳革が広く作られることになった江戸時代に甲州と大和に人的な交流があってもおかしくはなく、そこになにか現在の印傳に通じる交流があっても良いではないかぁ!! というこじつけ。しかも、談山神社は豊臣時代の郡山にむりやり移転させられていた時期がある。現在の大宇陀周辺は飛鳥時代には“薬狩り”と称する狩猟の場でもあり、近世までは薬と縁の深い土地柄である。 このへんをグルグルとこじつけると「奈良で鹿つったら東大寺っすよぉ」と単純に結びつけた罰当たり勝ち虫隊も、新たな道筋を見つけることに成功したといえるだろう。まぁ、なんの根拠もない、単なるこじつけですが……。

大和郡山のマンホールのふたは金魚






左から、馬、鹿、牛の革ジャン。
 観光客も少なければ、街の人も少ない平日の午後の城跡。見るべきものは多いのでじっくりと時間を費やしたいのだが、そうもいかない釣瓶落とし。
「薬師寺の西側にある大池の岸辺から眺めると、そりゃぁもう、ジス・イズ・奈良な風景が写真に撮れます」
 こう石野が宣言していたので、今回の撮影紀行はこの大池を重要ポイントとしていた。その筋の方にとって、ここはあまりにも有名な撮影スポットでもある。チャンスは薬師寺を赤く浮かび上がらせるだろう夕方と、上る朝日を背に受けた薬師寺を眺める早朝の2回である。当初の計画では市街地の紺屋町にて水路と古い街並みに佇む格好良いジャケットを着たおっさんという図柄を想定してもいたのだが、「道中、なにが起こるか分かりませんから、なるべく早めに行って場所を確認すべきです」と作戦参謀としてのいかにも分かったような口ぶりで、先を急がせてみる。


 実際の距離はわずかである。近鉄線の駅2つ分というお気軽な距離なので、勘ナビ全開で線路沿いに進む。しかし、本当に道が狭い。それでも一方通行にならない。勝ち虫だけならどうにでもなるが、カブト虫にはひじょうにつらい。その細道を思案橋しつつ進むタイミングが東京とはちょっと違う印象なのである。
 結局、精度に不安を残す勘ナビの実力を発揮して若干の遠回りをしつつ大池に辿り着く。

 ここを訪れるのは15年以上前である。昔の印象では田舎の池沿いの道であったが、なんだか綺麗に歩道ができて、池側に高い柵もある。いかーん、状況が違う。またもやホラ吹きにされてしまう。予定では手前にバイクがあって、その向こうに人がいて、さらに向こうに池があって、その池に姿を写す薬師寺が夕日を浴びて輝いているはずであった。でも現実は車も自転車も歩行者もバンバン通り抜けるし、空も夕焼けにはなりそうもない雰囲気。しかし、こんな時に作戦参謀がひるんではいけない。「もうちょっと暗くなれば、良い雰囲気ですねぇ。待てば海路の日和ありっす」などと何食わぬ顔で語ってみる。

池の向こうに見えるは薬師寺。








 デジカメのモニターではゴミのようにしか見えないカモが、これまた対岸のベストアングルに浮かんでいるし、東の空は雲がなくても西の空の太陽は雲に隠れている。とりあえず、写真でも撮りましょうかということで撮影を開始するも、坂上さんはちょっと渋い表情だ。「ダッシュで薬師寺に行って、ストロボでも当ててきましょうか?」などと場を和ませようとするも、さらに凍り付く初冬の水辺。石野はバイクの上に立ってあさっての方向を見ている。柵を写さないように高さを確保するという、涙ぐましい努力である。下校途中の中学生が、明らかに「なんや、このおっさん」という視線で通り過ぎる。
 もう駄目カモ……なんてことを思っていたら三橋さんが地元の方とお話しをしていらっしゃる。見れば、ガッチリ装備を持ってきたアマチュアカメラマン風の御仁である。そこで仕入れた情報を要約すると「前日は実に綺麗な夕焼け」で「薬師寺東塔は解体修理のためこのあと約10年間は見られない」けれど「今の時期だけは早めにライトアップしている」とはいえ「日の出が薬師寺と重なるのは今の時期ではない」ということであった。
 イェーイ!! 地獄で仏とはこのことだぜぃ。災い転じて福となすぜぃ。実際は地獄でもなければ、なにも災っていないのだが、心も軽くなるというものである。勝ち虫隊の面目躍如なのだ。坂上さんの表情にも精気が戻ってきたように感じる。本来ならばもう解体修理作業に入っているハズなのだが、この時期にも東塔が見えるのは平城遷都1300年祭のおかげだという。ありがとう、せんとくん。



2010年12月以降、約10年間は二つの塔が並ぶ薬師寺のこの姿は見られない(フォト:三橋)。
なお、坂上カメラマンのドラマチックな写真はカタログ用に温存。



 快適に撮影をこなした勝ち虫隊はすがすがしい気分で宿へと向かう。辺りはすでに夜のとばりが下りている。踏切で停まっている間に地図を確認した三橋さんが「踏切を渡って右だな」と呟いたのを聞き逃さず、「あっしがカブト虫に伝えてきやしょう」と2台後ろの車までダッシュ。
「踏切を渡ったら右折です」これまで、こんな行動は取っていなかったのだが、撮影も無事済んだ安堵感から腰も軽くなっていたのである。果たして、踏切を越えても右折する道はなかったのだった。やっぱりホラを吹いてしまいました。


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