2010年11月24〜25日



 当初の予定では1時間ほど藤岡勇吉本店におじゃましたのち、大宇陀に戻りつつシックな街並みでのシックな装いを撮影し、その後で3年越しの羨望の地である談山(たんざん)神社に行くはずであった。しかし、こんなことを事細かに守っていては、勝ち虫にはふさわしくない。当初の予定通り、奈良では藤岡勇吉本店を訪問した……くらいの寛容さが必要だろう。


 つまり、本当に革に関して変わらぬ愛情を注ぐ御仁同士の鹿革や漆皮(しっぴ)の話題がほんのちょっとの挨拶程度で終わるわけもなく、なんだかんだと談笑の時間は過ぎてゆく。「これから談山神社に行きますよ」と言えば「談山神社で使用される蹴鞠(けまり)の鹿革を納めています」と藤岡社長はおっしゃり、白と赤の小さな蹴鞠のミニチュアを見せてくださる。「長谷寺へ行くかもしれません」と言えば「毎朝お寺へ行っていますが、今は紅葉が真っ盛りです」と教えてくださる。

創業百余年という名店「うし源」さんにて、時の経つのも忘れて黒毛和牛を堪能。

 さらには、榛原(はいばら)牛なる、とても貴重な和牛を囲む昼食のお誘いを受ければ、それを断るような不作法は起こりえないのである。そのあっさりとしていて、それでいて濃厚さを感じる、とろけるような和牛を堪能したのはいうまでもなく、その成果であるかは分からないものの、今冬に作成される小物のなかには、和牛革と漆皮の組み合わせもあるとか、ないとか。実現すれば、まさしく宇陀からの贈り物……ご期待いただきたい。


歴史的な街並みにはツイードですな。
 とまあ、こんな有意義な時間を堪能していれば、あっさりと時間は過ぎ去るわけで、この朝の出発地、重要伝統的建造物群保存地区でもある宇陀松山に戻ったのは、もの凄い勢いで陽が傾きかける午後の2時前。前夜に散策した時も良い印象であったが、平日とはいえ昼間にもさほど多くの観光客も見られない屋敷群は好印象である。もちろん、まったく人がいないわけではないし、当然ながら毎日の生活をする町の皆さんもいらっしゃるわけだが、それでも、どこまでも静かで落ち着いた街並みであり、ぜひ一度は訪れてほしい。
 せっかく自由の象徴とか言われちゃうような勝ち虫に乗っているのだから、時間にしばられっぱなしの旅程では悲しいものがあるのだ。などと妙に納得しつつ、軽快に撮影をこなす。ちなみに、石野は勝ち虫に乗りつつ、勝ち馬を着ているので、勝っち勝ちやぞ。



 今回の撮影旅では、いわゆるお寺や神社ばっかりの奈良ではなく、このようなちょっとした古い街並みなども訪問するつもりでいた。ここ大宇陀のほかにも、橿原(かしはら)市の今田地区や奈良市の奈良町などを候補に挙げてはいたのだが、様々な要因に導かれるように大宇陀での撮影ができたことは、ひじょうに嬉しい滑り出しとなったのであった。





 秋の夕日は釣瓶落としっすなぁ……なんてことを昨日身にしみて体験しているにもかかわらず、なんとも余裕すら感じる行動をとってしまったのにはわけがある。前回の談山神社訪問時には開通していなかった道が、なんと2本も開通しているという事実が、我々の行動を勇気づけていたのである。そのひとつは、大宇陀より国道370号伊勢本街道を南下して宮奥ダムを経由し、談山神社方面へとあっさり抜けられる八井内トンネルの開通である。これにより前回は四角形の一辺を結ぶために、すべての三辺を通らなければならないという遠回りを強いられていたが、最短の一辺のみの通過で事足りてしまうという極楽ルートが使用可能なのであった。釣瓶落としな我々には、宇宙戦艦ヤマトのワープに等しい突破力である。さらに、そのルートから談山神社をかすめて飛鳥の石舞台(いしぶたい)にまで通じる県道155号線も開通済みである。

 やればできるもんね、と言いながらやらずに過ごしてきた数十年間に培った前向きな性格が、行こうと思えばすぐに行けるもんねという大甘な予測を生み出し、その結果、大宇陀における余裕の展開となったのである。
 しかして、この新造されたルートの八井内トンネルは思いのほか快適であった。本当に、前回の苦労は何であったのかと思うほどにあっさりと勝ち虫隊と衣類を積み込んだカブト虫号を談山神社へと送り込んでくれたのである。ところが、やっぱり見通しは甘かった。前回、桜の季節に訪れた談山神社は、夕刻だったからなのか、道が不自由だったからなのか、ほとんど人気のない場所であった。そんな印象がすり込まれている勝ち虫隊の眼前に現れたのは、駐車場に溢れんばかりの車とバスと人の波。さらには、すでに山影に入りつつある釣瓶落とし……。


談山神社の参道では土産物屋がずらりと並ぶ。前回は1軒も開いていなかったんだよなぁ。


土産物屋では味噌おでんから焼きまんじゅうまで、やたらとそそる香りが漂う。


マン島で命を掛ける者もいれば、マン頭に命を掛ける者もいる。人生いろいろ。
日陰でその勇姿が写らない談山神社・十三重塔。

 露店にて焼きまんじゅうなどを頬張りつつ、語らいを繰り返した結果、道も快適になったので飛鳥も近くなったことですし、明日か明後日にまた来ましょうやというていたらく。それならば、どこかで美しい夕日でも拝みましょうと次なる行動に移る。とりあえず、近くに停まっていた観光バスのガイドさんと運転手さんに、おすすめの夕日スポットなどを尋ねるが、意外とこういう方たちは、そんなことを知らないらしく、良い返答が得られない。それならば、ひとまずは新しい道を通って石舞台方面に抜けて、スポットを探そうではないかという結論に達したのであった。
 地図を見れば程よい距離に甘樫丘(あまかしのおか)という場所を発見。「“丘”といえば“夕陽ヶ丘”ですよぉ」などと短絡的に考えるのが私のトンボ脳で、いくら奈良は“かぎろい”とはいえ、夕日だって丘の上から眺めれば烏がカァと飛んでいく秋の夕暮れなんてところまで暴走する。まことに奈良っぽい。


談山神社の東大門参道入り口付近は重厚な杉並木を勝ち虫が駆け上っていく。






真っ赤に燃える交互信号。夕暮れ時で心の信号は黄色点滅中。この奥は細道だ。
 一山越えて飛鳥側にでると、夕日は健在である。ありがとう、太陽。ありがとう奈良の山々……とつぶやきつつ、さあ、素晴らしい夕日の丘へ勝ち虫隊をいざなっておくれと祈るのであった。
 さあ丘が見える。丘の上には柵らしきものも見える。あそこへ登れれば御の字。おそらく、御の字であろう。すでに脳内では、ほとんど風景はできあがっていたのだった。
 そんな安堵の勝ちどきを上げつつ進む我々の前に真っ赤な丸い光が見える。
「なげえ信号だなぁ」三橋さんがクラッチを繋いだり、切ったりしている。由緒ある飛鳥寺の近くの信号待ちのできごとである。おお、間違いなくイライラしていらっしゃる。信号の下には、“赤信号4分・青信号20秒”などと書いてある。なんと挑戦的な信号だろうか。この先はどうなっているのか……。
 陽が沈むぞ。確かに、道の奥は細くなっており、車は簡単にはすれ違えない。勝ち虫隊だけならなんとかなっても、我々にはその後ろのカブト虫号も必要なのである。

「こんな時こそ、余裕をもって飛鳥寺の駐車場でボールを膨らまして蹴鞠でもして待ちましょうや」などと言ってみるが、そんなことを聞いてもらえるはずもなく、むなしく時は過ぎていく。もう目標の甘樫丘は目の前である。あの丘の上に登ることができれば、飛鳥の平野の展望も、我々の展望もすっかんと開けるのである。それなのに、信号は変わらない。なんという長い4分だろうか。
 こんな状況を知ってか知らずか、対向車は皆無である。これが峠道での交互通行であれば、けっこう遠くまで見渡せるので動ける可能性もあるのだが、こんな町中では“来るなら来てみろ赤とんぼ”と凄まれているような威圧感があり、結局は蹴鞠もせずにたたずむしかなかったのである。
 待ちに待った青信号に促され、その複雑怪奇な道路の正体が徐々に明かされていく。停止場所から見えた道の奥は十字路ではなくT字路であり、そこは左折するのがベターであった。その先は次の信号まで約100m、左折してからが200mくらいだろうか。バイクと車ならば余裕ですれ違える広さがあった。小さな車同士でも譲り合えばなんとかなりそうな場所でもある。これは何かの陰謀ではないか……。


孝元天皇陵を眺める石川池のほとりにて、リアルバージョンの写真。わりと雑多。


同じく、フォトジェニックバージョンにすると、あら不思議。奈良の夕暮れ理想型となる。
 さて甘樫丘である。結論からいえば、登ることができるのは遊歩道であった。完全に甘樫丘に嫌われたのである(その理由は後述)。それでは次なる場所へ向かわなければと、丘でダメなので、水辺を選ぶ。テクニシャンのカメラマンがいれば、実際の夕日がそれほど美しくなくても、かなり良い感じになるはずなのだ。ということで、すぐ近くの石川池を目指す。ここは孝元天皇陵に沿った池であり、天皇陵なのだからきっと見晴らしも良いに違いない、というトンボ脳。
 いやぁ、惨敗である。勝ち虫隊改め、負け犬隊である。石川池は、すっかり住宅街のなかの小池といった環境で、夕刻で帰宅する車はバンバン通るし、中学生は怪訝そうな顔で我々をのぞき込むしで、本日終了の文字だけがトンボ脳のなかを飛び交っていたのだった。






夕暮れに八咫烏様御一行。ありがたや。


神社の石段もこの靴なら三段飛びだね。


敷き詰めたコルクが快適さを生むのだ。
 宇陀(うだ)から談山神社という、まことに短い距離を移動した前日は、何も負けてばかりいた訳ではなかった。夕暮れにほんの少しだけ敗北感を味わっただけなのである。しかも、その日の宿から窓の外を眺めれば、向かいのビルにはヒッチコックを彷彿させる烏の群れ。きっと八咫烏(やたがらす)御一行様に違いない。縁起が良いに違いない、と感泣している石野に、三橋さんがあるものを渡してくれたのだった。
「イシのび太君。明日はこれを履いてね」
「うぉお、R-02ブーツじゃないすかぁぁ。ありがとう、ミツハシえもん。これで明日の談山神社蹴鞠大会は優勝できるね。これはアディダスでしたっけ、プーマでしたっけ」「ばかやろう!! リーガルCo.の、あの新潟工場製だよ」
 そうそう、今回の旅に合わせて購入させていただいたR-02なのである。思い返せば数日前に、すっかり履きこなれたこのブーツを見て、案外良いかもと感じていたところに、「やっぱりグッドイヤーで、コルクも広く敷いてあると全然違うんだよ」という誘い文句を呟かれていたのである。このささやきは、ちょっと色合いが違うんだなと密かに思っていたうえに、根っからの貧乏性なので、靴に傷が付くからシフトアップしたくなくなるんじゃないかという不安を抱えていた石野を決断させるに十分だった。まぁ、工場へも取材に行かせていただいたので、その良さは十二分に分かっていたんですけれどもね……。


甘いルックスとタフなボディの憎い奴。



 そんな八咫烏の恩恵を感じつつ、翌朝はとっとと早起きをしてスキップしながら宿の近所の橿原(かしはら)神宮へ詣でてみた。おぉ、履き初めなのに、今のところまったく足が痛くならない。これなら、今日の蹴鞠大会(そんなものはない)も優勝だ、と足取りも軽くなる。大和三山のひとつである畝傍山の麓に位置し、橿原神宮は初代天皇とされる神武天皇をお祀りしている。その荘厳な雰囲気は朝の空気とも相まって背筋も伸びるというものだ。いや、もしかしたら靴のせいかも知れない。

橿原神宮の外拝殿。後ろに見えるのが畝傍山。

 前日以上の好天に恵まれて出発と相成る。もちろん、目指すは談山神社である。前日に仕入れた情報によれば、午前中早めならば、それほど観光客もいないという。もちろん社殿や紅葉に日が当たるという時間帯でもある。前日に通った道をたぐり寄せながら甘樫丘を横目にグングンと進んでいく。昨日の4分信号でも3分くらい待って飛鳥寺へとたどり着いた。実は、この飛鳥寺と談山神社とには深い関わりがある。ついでといっては申し訳ないが、甘樫丘にも関わる話である。


 本当はかなり濃い話なのだが、興味のない方には退屈な話なので極めて簡単に説明しよう。飛鳥寺はその昔には法興寺と呼ばれ、蘇我氏一族の寺であった。その西部に位置する甘樫丘(あまかしのおか)には蘇我氏の住宅があったとも言われている。この法興寺で蹴鞠会が行われた際に、中大兄皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに二人は懇意の仲となる。この、日本版シンデレラ野望編ともいうべき出会いは、645年の大化の改新へと繋がるのだ。大化の改新の相談をした山が談山神社のある談山(かたらいやま)であり、談山神社は中臣鎌足(藤原鎌足)を祀る神社である。つまり、昨日4分信号で待たされ、甘樫丘に登れなかったのは、「談山神社は格好良いっすねぇ」などと語っていたバチがあたったと考えるのが妥当であろう。
 この飛鳥寺は現在は小規模な印象があるが、法興寺時代は法隆寺に匹敵する規模の大寺院であったという。















 まあ、罰当たりでしかも場当たりな勝ち虫隊である。飛鳥寺を軽く訪問した後に、細道で大型観光バスに何台もすれ違いながら、談山神社を目指すのであった。
 少々触れたが、談山神社はここで大化の改新の談合が行われた山なので談山(かたらいやま)と呼び、そこで談山神社(たんざんじんじゃ)となるのであるが、神社の以前には妙楽寺という寺院であった。この寺院こそが、藤原鎌足公の遺骨を摂津から改葬し、そこに十三重塔を建てた。塔があるので、この山を塔の峰とも呼んだとされ、さらにそれが多武峰(とうねみね)と呼ばれてもいたという。
 談合と聞くとどうしても、入札価格の違法協定というイメージが先行するが、本来の談合という言葉自体には悪い意味はない。たとえば、中央自動車道を利用したことがある方は“談合坂”というSAの名を聞いたことがあるだろう。ここの名前の由来も話し合いや交渉に由来している。とはいえ、このSAに寄るたびにドキドキしている社長も結構いるかも知れない。まぁ、もっとも談合坂とは思わずに、団子坂と勘違いしている人も多そうだが……。
 そんな談山神社だが、紅葉狩りには極めて高い人気を誇る。談山の斜面に重要文化財となっている数多くの建築物が配置され、その隙間を埋めるように鮮やかな紅葉が彩りを添える姿は見事なのである。とはいえ、皆さんが携帯電話で写真を撮っている姿がそこに並ぶと、これはこれでシュールな印象となる。


























十三重塔:妙楽寺の名残りであり、多武峰の由来であり、現存する唯一の木造十三重塔である。





 この談山神社の公式ホームページによると全国の名字のうち約4000は藤原氏の氏族だという。そのなかには、藤岡さんも三橋さんも入っている。しかしながら坂上さんはいないし、石野もいないのは残念なので、春と秋に行われる蹴鞠会のための蹴鞠の庭で、再びサッカーボール風ビーチボールでも膨らましてやりますかと罰当たりな談合をする。ところが、そこはせんと君の記念撮影広場と化しており、談合不成立でいそいそと引き上げるしかなかったのである。せっかく、リフティングにも最適な靴を用意したのに……。
 蹴鞠とは鹿革で作られた鞠を4人で円陣になって蹴りあい地面に落とさずに蹴り続ける競技である。よくサッカーの練習前なんかに遊ぶアレと同じであるが、決まりがあり1人3回を蹴るらしい。1度目は受けた際の調整で、2度目を4m以上の高さに蹴り上げ、3度目に相手に渡す。その全ては右足のみで行うという。記録によると2000回も続けたことがあるらしく、その時代にワールドカップがあれば、日本代表もひょっとしたかも知れないと妄想が膨らむのである。まあ、石野の場合はエア蹴鞠で満足してきたがな……。


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